アルザスについてほとんど何も知らなかった
アルザスに来たばかりの頃、この地について知っていることと言えば、アルフォンス・ドーデ(1840-1897)の『最後の授業』とアルザス・ロレーヌという言葉ぐらいでした。
『最後の授業』はひとつの物語
『最後の授業』は、フランスがドイツとの戦争に負けてアルザスがドイツに割譲されることになり、学校でフランス語を教えられるのは今日が最後、という話で、この戦争とは普仏戦争(1870-1871)のことです。
この物語に関して、当時のアルザスの人々は日常生活ではドイツ語に近いアルザス語を話していた、フランス語の方こそ外国語だ、だからこの物語は実際の状況とは違うという見方があることを知りました。
ある日突然国が変わるという物語の展開で衝撃を受けてから、物語とは別の次元でドーデに騙されたというようなショックも大きかったものです。
今思うと物語なんだから史実と異なっていても構わないはずなんですが・・・
ところが、アルザスの歴史に関する本や資料を読んだりしているうちに、「実際」とか「現実」とかいうのは、人によって違うということに気づきました。アルザスの人々にとって、言語をめぐる状況やドイツとフランスとの関係は極めて複雑で、年齢や職業、家庭環境や地域によって受け止め方や反応に個人差があって、しかも言語の問題は第二次世界大戦後まで続いたことを知りました。
『最後の授業』は、アルザスの長い歴史の中のほんの一時期を舞台にしているひとつの物語で、改めて読むといろいろな解釈の仕方が可能だと思います。
フランスとドイツの対立の犠牲となった地
19世紀から20世紀にかけては普仏戦争の後に二つの世界大戦があり、そのたびにアルザス地方は多くの犠牲と苦難を強いられました。
普仏戦争前にフランス国籍だったアルザスの人々は、第二次世界大戦が終わるまでに4回国籍が変わりました。
普仏戦争後にドイツ、第一次世界大戦後にフランス、第二次世界大戦中にドイツ、第二次世界大戦後にフランス国籍に戻ったわけです。
シュヴァイツァー博士はアルザス生まれ
アルザス出身の偉人アルベール・シュヴァイツァー博士(1875-1965)。ドイツ人として紹介されることもあるようですが、それは博士が生まれた時にアルザスがドイツ領だったからでしょう。
シュヴァイツァー博士は、ドイツ国籍だったことで大変な経験もしています。
当時フランスの植民地であったガボンのランバレネで医療活動をしていたシュヴァイツァー博士は、第一次世界大戦が勃発した1914年に、ドイツ人であるということからフランス軍によって妻とともに自宅軟禁されてしまいました。その後フランスに移動させられ捕虜として過ごし、アルザスに帰郷できたのは1918年のことです。
第一次世界大戦後アルザスはフランスに返還されたので、シュヴァイツァー博士が1952年にノーベル平和賞を受賞した時はフランス国籍ですよね。
また、名前のカタカナ表記がアルベルトになっている場合はおそらくドイツ語読みで、フランス語読みではアルベールになります。
シュヴァイツァー博士の生まれたカイゼルスベルグには生家と博物館、子供時代を過ごしたグンスバッハにも博物館があります。
戦間期に皇太子裕仁親王がストラスブールを訪問
第一次世界大戦後アルザスはフランスに復帰して、1921年には皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がフランス復帰後のストラスブールを訪問されています。
ウンゲラー少年が体験した第二次世界大戦
しかし、アルザスは再び大きな戦争に巻き込まれることになるのです。
第二次世界大戦では、正式な条約や国際的合意もないのにナチス・ドイツはアルザスとモゼル(モーゼル)を事実上併合しました。抑圧や弾圧、ドイツ化政策、ドイツ軍への強制徴兵など、大きな苦しみと悲しみを体験し、大きな傷となりました。
絵本『すてきな三にんぐみ』の著者として知られるトミ・ウンゲラー(1931-2019)。ストラスブールに生まれコルマール近郊の町で育ったウンゲラーは、併合と戦時を生き抜くための生活と戦後の混乱を少年時代に経験し、手記の中で当時の生活の様子を語っています。フランス語、ドイツ語、アルザス語の巧みな使い分けに関しては、ただ驚かされるばかりです。
戦後のアルザス
第二次世界大戦後、アルザスとモゼルはフランスに復帰し、ストラスブールは和解と平和のシンボルの町となっています。
19世紀からの受難の時代を経て、現在はヨーロッパの平和と友好に寄与する特別な役割を果たしているアルザスですが、もっと時代をさかのぼると、更に特殊な道のりが見えてきます。アルザスの奥深い歴史に触れてみませんか?