ストラスブールの共和国広場のイチョウと日本

ストラスブールの共和国広場のイチョウと日本

共和国広場にある4本の大イチョウ

共和国広場(レピュブリック広場)という名前が付いた場所はフランス各地にあります。ストラスブールの共和国広場は円形で、周りに石造りの格調高い建物が並んでいるのが特徴です。広場中央には戦没者慰霊モニュメントがあります。

この広場は庭園として造られているため、多くの樹木と花壇があり、春先は木蓮の薄ピンク色の花が生命の息吹を感じさせてくれます。木蓮の開花時期を過ぎると、ひときわ目を引くのが4本の大イチョウ夏は爽やかな緑の葉で木陰を作り出し、晩秋には黄金色に輝いて、雄大さに華やかさが加わります。落葉して黄金の絨毯が広がると幻想的な風景に。

この4本のイチョウは並木ではなく、広場の円形が4等分されて1か所に1本ずつ植えられています。あまり大きくない広場ですが、この配置のおかげで空間的な広がりを上下にも左右にも十分感じることができます。

このイチョウがあってこそ、ストラスブールの共和国広場は、遠景でも近景でも個性的な景観を形成していると言えるでしょう。

明治天皇から寄贈されたイチョウだという言い伝え

共和国広場の4本のイチョウは、明治天皇(在位1867-1912)からドイツ皇帝に寄贈されたものだと言われています。よく知られた言い伝えなのですが、この国際的な出来事を記録した公的な文書はまだ見つかっていないようです

サイトなどの記事や紹介文には「寄贈されたものだ」と断定的に書かれている場合もありますが、「寄贈されたもののようだ」と推定的に書かれていることが多いです。

断定的に書いている紹介文でも、寄贈された背景や年などの詳細はありません。またそのもとになった情報源や出典も不明瞭なのです。

ドイツ皇帝とは誰のことでしょうか?言い伝えによってヴィルヘルム1世(在位1871-1888)説とヴィルヘルム2世(在位1888-1918)説があります。

明治天皇在位中にドイツ皇帝が代替わりしているので、どちらでも可能性があり、後にどちらだったのかわからなくなってしまったのかもしれません。

ヴィルヘルム1世の後にフリードリヒ3世が皇位を継承しましたが、病気により即位後約3か月で崩御し、ヴィルヘルム2世が即位しており、フリードリヒ3世はアルザス史の中にあまり登場しません。

ところで、現在のストラスブールを含むアルザスはフランス領土です。なぜストラスブールにドイツ皇帝にまつわるエピソードがあるのでしょうか?まずストラスブールの共和国広場がどういう場所なのか調べてみましょう。

ドイツ帝国領時代に作られた共和国広場

ストラスブールは「グランディルGrande-Île(大きな島) 」と呼ばれる旧市街地区が1988年からユネスコの世界遺産になっています。

大イチョウのある共和国広場は、「グランディル」と橋でつながっていて、大聖堂から徒歩10分程のところにあります。共和国広場を中心とする界隈は、「ノイシュタットNeustadt (新しい町)」と呼ばれ、2017年からユネスコの世界遺産に登録されています。「ノイシュタット」?ドイツ語ですか?そうです、しかもこの地区はドイツ帝国地区とも呼ばれているんですよ。

1870年から1871年にかけてフランスとプロイセンの間で起きた普仏戦争フランスが敗北。プロイセン王国を中心としてドイツ帝国が成立します。フランスは、1871年のフランクフルト講和条約により、アルザス地方の大部分とロレーヌ地方の一部の割譲を余儀なくされます。

割譲によってアルザス=ロレーヌ州と呼ばれるようになったこの地域は、ドイツ帝国政府の直轄統治下に置かれ、ストラスブールが州都となりました。

第一次世界大戦が終わりフランスに返還されるまでの間がドイツ帝国領時代(1871-1918)です。

「ノイシュタット」は、このドイツ帝国時代の都市計画によって作られた地区で、まさに当時のニュータウン。共和国広場は、「ノイシュタット」の中心軸であり、広場を囲むように宮殿や州都中枢機関の建物などが建造されました。

Kaiserpalast

1906年頃の共和国広場(当時は皇帝広場)とライン宮殿(当時はライン宮殿)。左奥に大聖堂が見える。

画像クレジット:www.numistral.fr/ Bibliothèque nationale et universitaire de Strasbourg

ヴィルヘルム1世、ヴィルヘルム2世、イチョウはどちらに?

共和国広場の造成の際にイチョウが植えられたと仮定した場合、広場の造成時期を調べれば、イチョウの寄贈を受けたのがヴィルヘルム1世(在位1871-1888)とヴィルヘルム2世(在位1888-1918)のどちらだったかわかるのではないでしょうか?

アルザスの歴史遺産目録の調査研究によれば、広場の設計案は、複数の提案や議論を経て、1887年1月末に皇帝から計画承認を得たことになっています。ということは、承認した皇帝はヴィルヘルム1世(在位1871-1888)

それまでの設計案では、樹木を植える予定もあったのかもしれませんが、広場に泉を作る提案がなされており、広場の形状も長方形や正方形に近い形でした。採用された設計案の広場は、現在見られるように中心部が円形で、中心部から4等分されるように遊歩道が設けられています。

設計図には詳細は書かれていませんが、現在イチョウがある場所に相当する箇所に点が描かれていて、この点は噴水ではなく樹木であることは確かなようです。

イチョウが明治天皇から寄贈されたものであるなら、この設計図に基づいて植樹されたとも考えられますしかし、この設計図に関する情報の中には樹木の具体的な名前はなく、明治天皇や日本については言及されていませんこの時代のイチョウの存在は不明、未確認ということになります。

なぜ地方都市のストラスブールに?

ところで、ストラスブールはドイツ帝国領時代にアルザス=ロレーヌの州都だったわけですが、ドイツ帝国の首都はベルリンです。

イチョウが明治天皇からドイツ皇帝に寄贈されたとして、当時の国家元首間での贈り物が首都のベルリンではなく、どうして地方都市のストラスブールに植えられたのか、何か理由があったのでしょうか?

日本側がアルザス=ロレーヌの州都にどうぞと提案した可能性は低いですので、ドイツ帝国の方で植樹場所を決めたと考える方が自然だと思いますが、ベルリンには植樹に適した場所がなかったとか、造成予定のストラスブールの共和国広場にエキゾチックなイチョウの木が良いと思ったからとか・・・なぜストラスブールに植えたのか不思議ですよね。

共和国広場のイチョウはなぜ4本?

前述の1887年1月末に皇帝から承認を得た設計図では、4か所に1本ずつ樹木を植えることにしたようですが、明治天皇から寄贈されたイチョウを植えることにしたのであれば、寄贈されたイチョウは少なくとも4本(5本以上なら余分は別の場所に?)あったことになります

寄贈が1本~3本で、4本に足りない分は別途入手したのかもしれませんが・・・

植物標本の専門家が書いた本の抜粋によると、ストラスブールの植物園にもイチョウが4木あるそうです。この植物園のイチョウに関しては、1875年の文献に既に1本あること、1881年には2本が植樹されたという記述があり、4本のうち2本か3本は当時からのものだと考えられています。

また、この専門家は、共和国広場のイチョウも同年代のものであるとしています。

イチョウが植物園と共和国広場に植樹された経緯については、この抜粋の中には示されていません。

ひとつわかることは、1875年には植物園のイチョウが既に1本あったということですよね。このイチョウがもし仮に現在までに枯れて今はないのだとしても、共和国広場の設計が承認された1887年より以前に植物園にイチョウが存在していたことになります。

皇太子裕仁親王のストラスブールご訪問とイチョウ

さて、もうひとつ不思議なことがあります。1921年6月23日に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がストラスブールを訪問され、当時の地元の新聞はご到着からご出発までを詳しく書いているのに、祖父である明治天皇から寄贈されたはずのイチョウに関する記載が一切ないのです。どうしてなのでしょうか?皇太子裕仁親王が共和国広場を訪れなかったからでしょうか?

ご訪問当日の旅程を調べてみると、共和国広場の名前こそ出てきませんが、皇太子裕仁親王は共和国広場に面するライン宮殿を訪問されたことがわかります。ライン宮殿の車寄せからも、ライン宮殿の中からもイチョウの木が見えるはずです。新聞記者が明治天皇ゆかりのイチョウについてふれないというのは、不自然ではないでしょうか?

イチョウにまつわる言い伝えは事実?

もしかしたら、イチョウが明治天皇から寄贈されたという言い伝えは事実を反映していないのではないでしょうか?1921年よりもっと後になって誰かが作った話なのかもしれないですし、他のエピソードや情報が勘違いされて、次第に言い伝えが定着してきたのかもしれません。

イチョウの植樹場所が日本に伝えられていなかったのかも?

ただし、他の推測もいくつかできます。

イチョウが本当に明治天皇からドイツ皇帝に寄贈されたものだとして、植樹された場所がストラスブールだと日本に伝えられていなかったのかもしれません

そうだとしたら、皇太子はイチョウを明治天皇から贈られた木として見ることはできなかったことになります。それは残念・・・

皇太子裕仁親王はイチョウをご覧になったのかも

また、ストラスブールの共和国広場に明治天皇ゆかりのイチョウがあると日本側が知っていて、皇太子裕仁親王がそれをご覧になったのに、何らかの理由で記録や報道がされなかったと仮定した場合はどうでしょうか?

1921年は第一次世界大戦が終わって数年しか経っておらず、フランスに戻ったアルザスにとっては複雑な時期です。敵であったドイツ皇帝にまつわる話は、なかったことにしたかったのかもしれません。

皇太子裕仁親王が明治天皇のイチョウをご覧になったとして、こうした国際状況から誰もそれを報道することなく、記録にも残さなかったとも考えられます

皇太子裕仁親王のストラスブールご訪問に関しては、動画「1921年皇太子裕仁親王のストラスブール訪問-第1部」と「1921年皇太子裕仁親王のストラスブール訪問-第2部で紹介しています。

言い伝えが広まったのはいつ?

明治天皇から寄贈されたという話は、戦間期に一度消え去って再び登場したのか、それとも近年になって突然出てきたのか、それはわかりません。ただ、この言い伝えが広まるようになったのは、フランスとドイツの関係が修復されてからのことでしょう

ということは、第二次世界大戦後。また、日本と関係のある話なので、アルザスが日本に対して再び関心を持ち始めた頃ではないでしょうか。個人的な推測ですが、1970年代から1980年代ではないかと思います。

イチョウが縁となってつながる日本とフランス、そしてドイツ

イチョウが本当に明治天皇から寄贈されたものかどうか、言い伝えの信ぴょう性はさておき、この言い伝えによって、私たちは19世紀の日本の開国や当時のヨーロッパの国々との交流を振り返ってみることができます

また、日本とストラスブールの交流関係が当時から始まっていたことを示していると言えるでしょう。

明治時代、ストラスブールはドイツ帝国領だったことで、日独交流に寄与しました。

その後、第二次世界大戦中を除いては、1921年に皇太子裕仁親王がご訪問された戦間期から既にフランスと日本の友好関係にストラスブールが大きな役割を果たしてきたことは確かです。

イチョウの下で平和を願う

ドイツ帝国時代、共和国広場は皇帝広場と呼ばれ、ライン宮殿は皇帝宮殿という名前でした。第一次世界大戦後にアルザスがフランスに復帰して、共和国広場の名に変わりましたが、第二次世界大戦中、再びドイツに併合されていた期間はビスマルク広場と呼ばれたそうです。

第一次世界大戦後の1919年、共和国広場の中央にオベリスク形状の戦没者慰霊モニュメントが建立されました。現在ある戦没者慰霊モニュメントはこれに代わって1936年に完成したもので、瀕死の男性二人(あるいは二人の男性の亡骸)を一人の女性が抱えている像があります。女性像は母親であると同時にストラスブールやアルザスを象徴し、男性像二人のうち、ひとりはフランス軍兵士となった息子、もうひとりはドイツ軍兵士となった息子を表わしていると一般的に解釈されています。第一次世界大戦中、アルザスはドイツ帝国領であったため、男性はドイツ軍に徴兵されましたが、フランス軍に志願した人もいたのです。また、フランス領土内に暮らしていた親戚や知人と敵味方に分かれてしまった人たちもいました。

そして第二次世界大戦によって再び起きた苦しみと悲しみ。

4本のイチョウは、ふたつの大戦も、その後ストラスブールが和解と平和の象徴の都市となる過程も見てきました

空に向かって高く伸び、大きく枝を広げた今、2021年の私たちを迎えてくれます。国を超えて人々が出会い、交流できる場を作っているかのようです。樹木であるイチョウは何も語らないですが、私たちが歴史を知ろうとするのを待っているようにも見えます。

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共和国広場のイチョウの言い伝えが縁でつながる日本とフランス、そしてドイツ。でも実際に友好の輪を広げていくのは、歴史に名を残すこともない人間ひとりひとりだと気づかされました。

1921年6月、当時20歳だった皇太子裕仁親王は、共和国広場から続く大通りの先にあるストラスブール大学の建物も見学されています。

明治時代、ストラスブール大学で学んでいた日本人留学生は、植えられたばかりのイチョウを見たことでしょう。その中には20歳だった学生もいたのではないでしょうか。

2021年に20歳を迎える方々に、心よりお祝い申し上げます。コロナ禍で先の見えない不安もあると思いますが、どんな状況でも、希望が導く先に良い未来が開けていくようお祈りいたします。

2021年12月1日は天皇家の敬宮愛子様の20歳のお誕生日ですね。心よりお喜び申し上げます。



参考

L’inventaire du patrimoine en Alsace, Place de la République

外務省外交史料館日本外交文書デジタルコレクション-皇太子裕仁親王欧洲諸国訪問一件

1921年6月24日ストラスブール新聞

L’ARBRE AUX 40 ECUS, Extrait du livre de Françoise Deluzarche, PDF